裏の履歴書


私カジパは、こんな人生を送ってきました。
(2003年8月13日改訂、2008年10月9日改訂、2010年4月1日改訂))

|実家の家族幼児期小学校中学校高校岡山大学東北大学感想|

●1958年5月5日岡山県邑久郡長船町磯上(現瀬戸内市長船町)の母の実家の
 納戸で生まれた。
 当時:父(利昌)32才、母(清子)23才。
 父の家系は水軍。平たく言えば海賊。屋島の時に活躍し損ねた。義経め。
 母の実家は石屋。宵越しの金は持たない職人の祖父。広島の殿様の直系の祖母。


《実家の家族》

●父は某大企業の厚生係をしていた純一の4男として生まれ、大阪で何不自由ない
 暮らし(子どものくせに松竹に入り浸っていたらしい)をしていたが、父が8歳の
 ときに亡くなり、母が12歳のときに亡くなり、岡山に戻った。造船所に入り、
 設計の仕事をしていたが、志願して衛生兵として戦地に赴き、敗戦後は命からがら
 郷里に戻って自分で家を建てて卵などを売り歩いて生活していた。
 結核を患い、入院先の結核病院で患者グループの社会党組織の委員長をしていた。
 人権裁判である「朝日裁判」にかかわり、裁判所に提出する書類を書いていた。
 退院後、江田三郎さんに秘書にならないかと言われたが、路線が違っていたので、
 拒否。以後、社会党の仕事をしながら、無職。私が3才の時に、岡山県建設労働
 組合に入り、書記次長、事務局長で退職。退職後5年間、嘱託として勤務。
 (秋山長造氏とは懇意で、額が実家にある)
 在任中は、大工の腰痛を職業病として認定させる運動を全国的に率い、厚生省の
 医官とテレビ二元中継で渡り合い、結局認定させた。(ずっと医学部の公衆衛生学
 研究室に通っていたらしい)。他には、全国で初めて職業訓練を行った組合として
 有名らしい。毎週金曜日は「しょっくん」で帰宅が遅くなる父であった。
 その他、日曜は地元の組合支部に通って相談を受けていた。
 退職後は社会保険労務士の仕事を時々引受けるくらい(自作の看板を出していた)。
 で、「いやあ、今年は3万円もかせいだなあ」などと呑気にやっていた。
 が、ボケ始めたので、琴修会大正琴教室の支部長(下記参照)に納まり、またその
 能力を発揮し、生涯一番多い年収を得るに至る。(笑)
 2003年7月16日午前8時20分、某総合病院にて死去。
 ナースセンター付置のベッドから落ちて頭を打ち、そのまま意識不明。その間の
 ナースの無知による初歩的な機械操作ミス等を見て、カジパは医療不信に陥って
 いる。できれば自分が看護学校の教員を志願しようと思ったくらい。具体的には、
 点滴が止まってアラームが鳴れば、アラームを停めるだけでなく、点滴の管を
 確認するのが普通でしょう。どうしてアラームをリセットするだけで帰るのか。

●母は女子高時代に歌謡コンテストで県代表の3人になったが、祖父に見つかり、
 その後のテストに欠席。結婚後はカワイ楽器のセールスマンとして勤務後、
 音楽教室を開き、ピアノ、電子オルガン、パーカッション、ドラム等を教える。
 その後、雇われ楽器店店長。この時期に大正琴を修得する。
 琴修会という大正琴の流派の支部を自宅で開設。流派代表の技術指導者として、
 西日本を中心に指導に駆け回る。
 韓国には教育相の招きで行った。中国にも100人超のじじばばを引き連れて
 演奏旅行に行った。
 現在は、認知症で要介護2。父が亡くなってからは坂を転げるがごとく。
 2008年、大正琴の支部を他人に引き継いでいただき、今は週3回のデイケアと
 週6日のヘルパーさんのお世話(朝のみ1時間)に。一人暮らし。

●妹はテクニトーン(電子オルガン)のグレード審査員。
 カワイ中央音楽学院卒業後、ハモンドオルガン、テクニトーンと所属を移った。
 母の大正琴に巻き込まれたが、反目して脱退。母校短大の音楽教師(非常勤)も
 務めた。4年制の音楽大学の講師依頼は、自宅から遠いからと断った。
 2008年9月から喫茶、バーを始めたが、赤字のため2009年7月で撤退。現在は、
 牛窓のペンションでパートタイマー。


《幼児期》(1961年頃〜1964年頃)

●私が3才の時まで、父と母は編み物などをして生活費を稼いでいた。つまり貧乏。
●森永砒素ミルク事件があり、乳の出なかった時期は、近所の在日朝鮮人の方から
 もらい乳をしていた。(ありがとうございました)
●乳を飲まないため生後2ヶ月で離乳食を始め、その成果が上がり,保健所始まって
 以来の健康優良児となった。
●3才直前からカワイの音楽教室で学ぶ。
 3才直前から西大寺愛児園に通園。(ここから記憶あり)
 愛児園では、弱虫。いつもぼーっとしていた。かけっこはビリ。ジャングルジムに
 登ってのクラス写真撮影も、一人だけ地面にしゃがんでウトウト。
 つまり、ぼーっとした奴だったわけです。
●たしか一度、ズボンの中にウンチをして、幼稚園のお風呂?で、冷たいシャワーで
 洗われた。
●西大寺市市場町に住む。家賃2000円の長屋。
 隣にいた、年中念仏を唱えているおばあさんは30年たった時にもまだ生きていた。
 あの頃から既にばあさんだったのに。
 2010年正月に行ったら、ばあさんと元我が家部分は取り壊されていたような。
●降園後は、一般家庭に預けられていた。母の給料24000円のうち2万円がその費用。
●西大寺幼稚園では、足が細いのが恥ずかしくて、半ズボンをほとんど履かなかった。
 増水した川の深さを、カサで測ろうとして落ちる。
 家の近くの用水に、三輪車ごと落ちる。近所の方に助けられ、最初の言葉が、
 「かっぱ天国おらなんだ(いなかった)」(当時はやっていたのだそうです)
●一番の暴れん坊、藤本君に追い詰められ、反撃したら藤本君が泣き始めて、どう
 しようもなくなったことがある。
●鉄腕アトムを見るために,お寺の鐘が鳴る中走って帰ったのに,玄関先に妹が散ら
 かしたおもちゃを片付けるまで家に入れないと言われ,家出した。駅に向かう途中
 母がタクシーで追いかけてきて,つかまった。夕食を取りながら母はずっと泣いて
 いた。

《おまけ》(昭和30年代の時代と文化を感じさせることごと。。)
 銭湯の子供料金が7円。大人は11円だった。
 米は米屋さんで量り売り。大きな米櫃?からちょっと黄色い米を買った覚えが。。
 米菓子(ぽっかん菓子)の、大砲みたいな機械を載せたリヤカーが来ていた。
 ミゼットのオート三輪の運転をした。棒状のハンドルだった。。
 「あさりー、えーしじみっ」の声で朝起こされていた。
 豆腐屋も自転車で回っていて、ボール(かどんぶり)を持って買いに走った。
 駄菓子は、貧乏のため小遣いがなかったので、あまり知らない。
 5円で買える紙飛行機を飛ばした。
 釘を投げて地面に突き差し,相手の釘を同時に倒して遊んだ。。
 お好み焼き屋で、ソースだけただで焼いてもらっておこげを食べていた。
 アイスクリームを買って(どこにお金が?)、川の水を入れて増やして食べた。
 かまぼこ板の一方を山型に切って、先端部に釘を打ち、紐をつけて船にみたてて
 引っ張って遊んだ。その頃の川の底には藻がたなびいていた。。。
 力道山の試合が始まると,母は向かいの家に行ってしまった。
 東京オリンピックを見るために白黒のテレビを買った。



《小学校時代》(1965年頃〜1971年頃)

●西大寺小学校入学時の体重が15.5Kg。細く小さい子供だった。
●1年生の時の担任、三宅玉枝先生にはよく叩かれた。気が小さいため、自分の教材
 が配付されなくても言いだせなかった。授業の途中で先生が気づき、居残りで立た
 され,往復びんたをくらった。
 ごめんなさいを100回言わされたが、なんで叱られているのかわからなかった。
 今もわからない。
 しかし,そのときは大声で泣き続け,そのおかげで,隣のクラスの人見先生とは
 親交が続いた。(ガンで亡くなりました)
●西大寺市川崎町のアパートに移り住む。
●2年生の1学期、大河原照江先生より学級委員に指名された。
 一緒に委員になったのは、T尾和則君とO屋敷佳子さん
 先生に勧められて測った知能指数は180だった。
 昔神童、今はただの人が私のモットー。
 誰でも、いずれ普通のおじさん,おばさんになる。←教育者の安心
●春の運動会直後、空腹のため小学校の生垣に失神して倒れ込み、保健室で手当てを
 受けた。学級委員は父兄との玉入れがあって,みんなより1競技多いんだな。
●西大寺市上之町のアパートに移り住む。
●3年生の時、墓地の池で犬の頭蓋骨を拾い、担任に届ける。明日持ってきなさいと
 言われた。えらい先生だったなあ。。若い女性の小西裕子先生。
●4年生の時、風呂炊きの手伝い中、炊き口から半分焼けた宿題が出てきて、それを
 見つけた母親に,担任の先生に届けさせられる。その後半年間、学校から帰った
 時間、宿題を始めた時間、終わった時間、漢字学習、自由研究と、すべての開始、
 終了時間を毎日報告させられる。(二度目の大河原先生の担任時)
 たぶん今もこの時の学力で生きている。
●4年生から急に背が伸び始め、3年で30センチ伸び、卒業時には164センチに。
●5年生の時、西大寺に最初にできたサッカースポーツ少年団にいつのまにか入る。
●6年生の時、担任に勧められ、岡山大学教育学部附属中学校を受験。親子ともども
 進学の意思はなかったので、合格発表を見に行かず、ほうっておいた。
 ところが合格していたので、あとで担任から親子ともども叱られた。
 結局、地元の中学校のように坊主頭にしなくていいということと、地元の中学校に
 はないサッカー部があるということで、附属中学校入学を決意。

《おまけ》(昭和40年代の時代と文化を感じさせることごと。。)
 万国博覧会が大阪で開催された。
 カラーテレビを買って、万博に招待された。
 新幹線が岡山まで開通
 学校の旅行で万博に行ったが、ソビエト館に2時間半並んだことしか覚えていない。
 太陽の塔も登ったが、ところどころにある灯採りの窓から階段を登っている人を外
 から眺めたことが印象に残っている。(子供の興味の対象っておもしろいね)


《中学校時代》(1971年頃〜1973年頃)

●岡山大学教育学部附属中学校に、バスを使って通う。後には、始発電車(赤穂線)に
 乗り、岡山駅で岡山電気軌道の路面電車に乗り換え、東山まで行き、徒歩。当時、
 岡山電気軌道の一ヶ月の定期券代が600円だった。
●成績はずっと中。出した宿題は2年の夏休みの絵画ひとつだけ。毎日各科教官室に
 呼ばれて、なぜ宿題を出さないのか説教を受けていた。ま,長くて10分だから(^^;;
●始発で行きサッカー、10分の休みは説教、放課後はもちろんサッカー。
●頭髪は、ぼさぼさ。これで、入学時の目的は完遂した。勉強のために附属に行ったの
 ではなく,髪とサッカーのためであったことを証明。
●13才の誕生日直後、母の実家付近でバイクに乗り、つかまる。学校を休んで2回、
 家庭裁判所に通った。水曜日の美術の時間だったので、悲しかった。
 (このあいだ裁判所の人に聞いたら、裁判所に行かなければいけないのは14才から
  ということだった。じゃあ、祖父の一周忌だったのかもしれない。いずれにしても、
  裁判所にお世話になった年令としては誇っていい早さだったかも。(^^;;;)
 要するに、不良だったわけです。ハイ。
●2年の時、クラスの掲示委員だったので、生徒の希望をとって、アイドルのポスター
 を教室後の掲示板に貼った。各先生からは非難の嵐。担任の佐藤先生がかばって
 くださった。日の丸も貼った。これは、現北海道大学教授の山口二郎君の提案。
 遠足では2人で軍歌を高らかに歌って行進した。
 校内サッカー大会では日の丸と神風と書いた鉢巻をして、君が代を歌って戦った。
 彼も、私も、今はそんなことは決してしない。
●ホームルームで学校の敷地内に畑を作ったが、水道が遠いため一人で井戸を掘った。
 が、職員会議でクレームがついて埋めさせられた。水道管をよこせと言ったが、
 ダメだった。
●3階のベランダからベランダづたいに飛び降りて、学生服を破ったが、女の子に
 縫ってもらった。(ジャキ、ありがとう)
●2年の2学期の英語のテストはすべて白紙で出した。将来英語は使わないと
 誓った。(あとで困った)
●高校進学も考えていなかった。
●3年の時、僕のファンクラブができた。
●サッカー部では3年の時に岡山市で優勝、岡山県で3位の成績を残した。


《高校時代》(1974年頃〜1976年頃)

●岡山県立西大寺高等学校に、徒歩5分で通う。
●中学卒業後、入試の合格発表前からサッカー部で練習を始める。
 1年の春にはすでにレギュラー(左ハーフ)だった。
●将来の夢をサッカーと音楽に決め,オルガン教室に通ったが、2ヶ月でやめた。
 かわりに当時はやっていたフォークソングをギターをかき鳴らして歌い始めた。
●音楽の先生に、君は笛がうまいからとブラスバンド部に誘われるが、サッカーを
 優先し、断わった。
 クラリネットがやれるか!(今はもちろん後悔している)
●1年の時は、実力テストでは10番以内(230人中)。定期考査では70番くらい。
 勉強しないんだものな。
 その後,実力テストでも2年の春に50番に。2年の秋には180番に落ちた。
 勉強しないんだものな。
●英語で230人中228番を取る。2名は欠席。(^^;;
●中学時代の英語に次いで、高校では化学をやめた。
●2年の時に、前体育委員長に粘られて生徒会に立候補。
 全校生徒1500人の投票により,700票強を集め、トップ当選。
 2位は280票。立候補演説はマジンガーゼットと生徒会(意味不明)。
 執行部内での役職は体育委員長。
●この時期,中学生の時から関心を持っていた被差別部落問題の運動にのめり込む。
●県高校生集会(たぶん民青)に実行委員として参加。部落問題の分科会を主宰。
 フォークギターをかき鳴らして、アジってた。
●冬休み明け宿題テストで、カンニングをしている同級生に気づき、そのことを
 試験監督の先生に告げた後,途中棄権。ついでに次の英語のテストもボイコット。
 このようなことは高校始まって以来のことで、おとがめなし。
 担任の先生とストーブにあたりながら
 「困ったねー、前例がないから処分の方法がないねー」「すみませんねー」(^^;;
●体育祭では、全校生徒を必ずどれかの競技に出場させるため、新競技を作った。
 後に後輩となった妹に、変な競技があると言われ、自分が作ったと自慢すると
 大ひんしゅくを買った。自転車遅乗り競争、50メートル背走、逆立ちレース、
 女子綱引き(10本を300人で奪い合う),応援合戦、、、etc.
 楽しいと思うけどなあ。。。(運動が嫌いな人もいるのよね,世の中には)
●野球の応援団長を務めるが、県営球場に校旗を忘れた。卒業式の3日前に発覚し、
 校長室に呼ばれる。無事に保管してあったので、急いで取りに行ってもらう。
 (教頭先生、ありがとう)
●文化祭のあと、登ってはいけない屋根に応援団の格好で登り、後輩にエールを
 送る。これも,あまりのことに、おとがめなし。
 (学校始まって以来のかわいい奇行が多かったんだな)
●サッカー部では2年の春からキャプテンをやらされる。
 それ以来、11連敗。他の高校に3年がいなくなってからは破竹の勢い。(^^)
●サッカー部の成績は3年の春に地区大会優勝、岡山市で優勝。県は無理だよ。。
 でも,よその先生に県代表選考会に誘われた。もちろん断った。このクソ暑いの
 に真剣にサッカーやってられるかよ。。。実は上記高校生大会が忙しかったり、
 体育祭の準備があったり、牛馬のような横暴なプレーをする他校のやつとは
 サッカーがしたくなかったから。
●高校でも僕のファンクラブができた。なんでかな。(ちょっとうれしい)
●後輩の漫画の主人公となる。メガネをかけてサッカーをやっていた。ううむ。
 そんな漫画があったなあ。。彼は僕のプレータイプでもあったし。。。
●提出した宿題は,一年の時、「君、宿題やってるの?」と聞かれ、「やっていま
 すと答えたばかりに、徹夜して出すはめになった夏休みの英語の宿題。
 3年間でこれひとつだけ。家は勉強するところじゃない。
 宿題未提出者は毎授業で出席番号を呼ばれていたので、常習者の私はそのたびに
 クラスからの失笑をかっていた。(また7番ねってな具合で)
●なぜか不良にもまじめな奴にも友達がいた。
●実は暴走族に挨拶されたことがある。(まっ黒いヘルメットくらい脱いでくれ
 ないと、誰だかわからないよねー。思わずびびったが、後輩だった。)
 「元気そうだな」「はい!」「気を付けて乗れよ」「はい!」なんて、かわいい
 もんだ。(^^)
●大学受験は、一つ補欠合格だったが、父に、金があるかと尋ねたら、「ない」。
●最後の受験校に向かう朝、父から「受かっても浪人しろよ」と言われる。
 受からなかったので家庭破壊になることもなく、無事浪人決定。

《予備校時代》(1977年〜1978年)

●岡山市の関西進研予備校に通う。
●最後の模擬試験では予備校で9位に入り、成績が掲示されたが、物理は0点。
 もちろん物理は主要な入試科目であった。でもあわてない。
●英語は「でる単」と「英語標準問題精講」を2ヶ月でやり終えた。
●化学と物理と英語ができないまま、岡山大学理学部生物学科受験。
 ふつうの人は、これでは理系は受けない。自己採点の結果、数学は11点だった。
 どうして受かったのか、今でも不思議。
 合格者の数学最低点は8点と、あとで先生に聞いた。まだ下がいる(自分かも)。
 僕の受験科目は、数学I、数学IIB、数学III、現代国語、古文、漢文、英語、
 物理、生物、世界史だった。
●それにしても、甲南大学理学部(模試では600人中4番)に落ちたのは今でもわから
 ない。(昔はここくらいしか私学で生物系はなかったのよん)
 北大に受かったやつもそこを受けて、落ちていた。あとは支障があるので書かない。
 試験は水ものなんですなあ。。。
●あとは、獣医を受けたが、落ちた。同志社大学に現役で受かっている同級生のとこ
 ろに泊めてもらって京都会場で受験したが、彼のコーヒーカップの汚さに、大学生
 の実体を見た。お湯を入れるだけでコーヒーが飲めるとうそぶいていたが。。。。
●東京会場のときは、東京外大に入っている同級生のところに泊めてもらった。こい
 つは地元の大学に受かる力があるのに,すべて白紙で出した奴。早朝からうるさい
 と思ったら、中学時代の英語の教科書をすべて音読してから一日を始めるのだとい
 う。彼は、大学教師はばかだと言って,その年慶応の文学部に入り直した。
 (東京外大の先生、他意はありません。昔の話ですし)m(_ _)m



《岡山大学時代》(1978年〜1984年頃)

●岡山大学理学部生物学科では、入学式の次の日、幹事になりコンパを企画。しかし、
 集合場所に来る人が同級生かどうか判別できなかった。ま、全員集まったけど。
●1年の冬から、あまり家に帰らなくなった。バイトに明け暮れ、月々6万円を稼いで
 いた。学費を払わせてくれという両親に負けて、学費は払ってもらった。
 このころ(約20年前)の学費は年に144000円だった。
 2年ごとに1.5倍に上がっていたころでしたね。
●車の免許を取り、車を買って乗り回す。以後、乗り回した車は20数台。みんな車検
 費用がなくて車検前に廃車手続きをした。
●教育学部で理科教育の授業を受けたが、ひどい内容だったので、教職単位を取るのを
 やめた。→今,教育学部で教えるはめに。。。トホホ。。
●3年の夏,臨海実習の打ち上げコンパで、先生から名幹事とほめられ、酒を飲み過ぎ
 て堤防から海側に落下(寝ていて,海側に寝返りをうった)。
 額からまぶたを通って側面に切り傷を作り、20針近く縫った。
 あやうく恩師の職を奪うところだった。。
 この話には続く話があるが,内容は公開できない。
●3年の冬、山道で車が横転し、崖を登って頂上で車の下敷きになってしまった。
 全損事故。
 すべてのガラスが割れ、運転席の屋根は潰れ、車のドアが2倍の長さになっていた。
 しかし、本人はシートベルトをしていなかったため、車外になげだされ、足が車の
 下敷きになったのみ。ただ、崖に宙づりになった。
 2週間入院したが,臨海実験所で卒業研究をしたいがために、吉田正夫先生の授業
 にだけは病院から出席した。
●研究室配属直前のコンパで、吉田先生から、「おまえXX(動物名)だ。明日から
 来い」と言われ、次の日から熱を出して2週間休んだ。
 (実はその動物がどんな動物かわからなかった。実習ではスケッチしていたのに)
●卒業研究は、「XX(動物名)幼生の光誘起行動と単眼の微細構造」。
 卒論には第2部があって、牛窓周辺のXX類の種類同定もした。
 (あいかわらず一つのことに集中できない性格である)
●大学院入試勉強では、視物質は絶対にやりたくなかったので、勉強しなかった。
●修士課程修了後、東北大学の博士課程に進み研究を続けたいと希望を出したが、
 東北大学では,東京大学から転勤した先生が,学生を連れてきたので欠員がなく、
 今年は募集しないと言われた。そんなんあるか!
●研究生を一年やり、修士時代の仕事をまとめて専門雑誌に論文を発表した。
 専門雑誌は、吉田先生が編集者の一人だったので、それを勧められたが、レベル
 の高いBiological Bulletinにした。(先生、ありがとうございました)


《東北大学大学院(浅虫)時代》(1985年頃〜1988年頃)

●東北大学理学部附属臨海実験所(青森市浅虫)で博士課程後期の学生として研究を
 続けさせていただいたが、仙台には事務的な用事でしか行く機会がなかった。
●1年間は、敷地内から出ることも少なく、青森市に行くと迷子になっていた。
●実験所の建て替えにあたった。
●雪掻きがうまくなった。
●身体障害者の人たちとよく遊んだ。
●ハンセン氏病の方々にも懇意にしてもらい、よくごちそうになった。
●1987年12月20日、日本基督教団青森松原教会で中山年道牧師より受洗(洗礼を受け
 る)した。
●専門雑誌への発表,学会発表,国際シンポジウム発表など,それなりの成果はあげた
 つもりだが博士論文はまとめられず、最後は自主退学(単位取得退学扱い)して、
 1989年4月、岩手大学教育学部に助手として奉職。

《現在》
●岩手大学環境科学系、教育学部准教授 専門は動物生理学および環境教育。
 研究よりも岩手大学情報処理センターの仕事をたくさんやって、叱られた。
●世界中のXX(動物名)の研究者を焚き付けて、ホームページを作らせ、リンクした。
 そのページは、日経サイエンス1996年8月号で紹介された。が、海藻と紹介された。
 この活動はその後教授の逆鱗に触れ、閉鎖した。
●妻(1990年4月結婚)と娘(1992年8月29日生)がいる。
 住所は盛岡市。
 趣味はバラ栽培。庭に植えていたが、引っ越しのため、今は鉢栽培。
●最近は情報関係にも飽きて来て、環境関係のいくつかの団体で代表や副代表理事等を
 務めている。
●最近、大学が「持続可能な未来共生教育」(ESD)に取り組み始めたので、まさに
 自分が生きて来る過程で取り組んできたいろいろなことが花開いたように感じている。
 そんななかで、みんなで住みやすい地域社会を作りたいと思っている。
●なぜか大学ミュージアムのホームページ作成、ボランティア担当などをしている。
●そんなこんなで、学内兼務教員の職が3つもある。おかしい。



《感想(高校生に)》

 受験失敗も、入学断念も、浪人も、入学も、大学院も、研究生も、編入も、留年も、
 そして最後は退学と、学生時代は豊富な経験を積んできた。
 恋に破れ、事故で死に損なったこともある。
 決してまともな生活をしてきたわけではない。
 そして、今もいろいろと考え続けている。

 やめたはずの視物質の研究を、やめたはずの化学的な仕事でまとめ、
 やめたはずの英語で論文を書き、専門雑誌に掲載している。

 そして、いやになったはずなのに、今は教育学部で理科教育にたずさわっている。

 人生とは、なんと不思議なものよ。
 まだまだ続くけどね。

 どこでどのようにころがるかわからない人生に、今から決着をつけるなよ。

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最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
カジパ