東北関東大震災津波の爪あと
宮古、山田、大槌、釜石



2011年3月11日に起こった地震による大津波で、三陸沿岸の街々は壊滅的な被害を受けました。
3月27日(日)、被害を受けた方々に、必要なものを聞いたうえでお届けにあがりました。
また、一部、安否確認と、余ったものの引取りと配布をお願いしました。
運転手はSさん。同行者はMさん、Cさん、Hくん。


これらの写真に写っているもので、被災地の方がお気を悪くされるかもしれないと思いつつ、
非被災地の方々にぜひ現実を見ていただきたいと思って公開します。
もしご意見がございましたら、以下のアドレスにご連絡ください。
skaji @ iwate-u.ac.jp

続編:気仙沼〜本吉郡小泉〜南三陸町歌津
写真の説明は、すべて写真の下に書いています。



雪の道

朝8時に盛岡を出発して、国道106号線を宮古に向かいました。
しばらくして山に入り、銀世界が続きます。今年の3月は少し寒いような気がします。
ノーマルタイヤなのでしょうか、埼玉から来た車が凍結道路を登れず止まっていました。
家族親戚に届ける荷物でしょうか。満載のまま登れないのは悲しいことです。
のちに、それでも一所懸命登ってきたのがわかりました。
願わくは事故を起こさないようにと祈りながら、下りの凍結路で追い越しました。

まずは、新里村にある宮古市救援物資受入センター(新里村トレーニングセンター)に
物資をお届けし、必要な方への配送をお願いしました。
特に、アレルギーのある乳児のミルクは大切に。
トレーニングセンターを12時25分に出発し、また106号線に戻り宮古市へ。

宮古市では、106号線南町の山田線跨線橋手前のH歯科に頼まれていたものをお届けしました。
ここの方が、さらに必要な方にお配りくださるらしいのです。
ここを11時ちょうどに出て、Sさんのご友人を訪ねて宮古の街の中へ入りました。。
が、さきほどのお宅から山田線の踏切を越えると、いきなり車が家に刺さっていました。
さきほどのお宅の一角は、奇跡的に津波の被害を受けなかったらしいのです。
恐ろしい。


宮古市内

まずは大通を宮古駅方向へ。
道の両側には片付けたゴミや瓦礫がいっぱい。
末広町を東進すると、いろんな制服を着た人たちが作業をしていました。
北上して街に入ると、道の両側に積み上げられた瓦礫が累々と続いています。。
よく見ると、小さいものは分別して袋に入れてあるようでした。
しかし、このような中で生活をしていらっしゃることを考えると、胸が潰れそうに
なりました。


宮古の水位

津波に襲われた宮古の街は、細かい泥が堆積していました。
濡れるとぐちゃぐちゃ。乾くと舞い上がる。しかも臭い。
皆さん、黙々と片づけをしていらっしゃっいました。
電気などのインフラが破壊された中での作業は大変だと思いますが、水道は使える
ようでした。が、隣でも、場所によってこの状況は全然違います。
ここでお会いした方は、宮古の街で無償奉仕をずっと続けてこられた方とのこと。
立派な方はたくさんいらっしゃるものです。


磯鶏

もう一度商店街に戻ると、そこには大きな船が。これはどうやってどけるのでしょう。
それから宮古市役所前で45号線に入り、閉伊川を渡り、南下しました。
磯鶏(そけい;地名、宮古港がある)のあたりは、堤防を越えて直接津波を受けた
場所であり、とにかくずっと瓦礫が続いていました。
もちろん、ほとんどの家が一階部分を失い、半壊、全壊して傾いていたりしています。
建物ごと、どこかに流された家もあります。

津軽石河口あたり

高浜地区でしょうか。まったく洗われた感じです。
家があったであろうところには、黒い泥がべったりと。。。


マース

津軽石川河口にあるレジャー銭湯マースです。
堤防から越えたばかりの津波の直撃を受けたのでしょう。ボロボロです。


養殖用浮きがからみつく電柱

電柱には、養殖用の浮きがたくさんからみついています。
とにかく、使えなくなったものがゴミになってそこらじゅうを埋め尽くしています。


被災した動物を預かるアトム動物病院

我々は被災した動物を預かっている動物病院にペットフードを届けるというミッションも
持っていたので、津軽石のアトム動物病院に寄って、フードを受け取っていただきました。
ここでは犬と戯れたり、早坂君がおしっこをかけられたり、話が弾んだりしました。
12時過ぎ、ここを出発して山田町へ。


新幹線のオブジェがあったレストラン(あとかたもなし)

いよいよ山田町に入ってきました。ここで気温は3℃。2月下旬の寒さです。
写真は臨海実習のときに食事をしたレストランです。おもちゃの機関車が料理を運んできます。
外には新幹線のオブジェがあったのに。レストランの建物すらありません。


山田町ホーマック前(45号線から)

山田町にホヤ取りに行くときには必ず寄っていたホーマック(ホームセンター)。
鉄骨と壁の一部、屋根部分しか残っていません。
このあたりには、とにかくあちこちに船が。。。


山田町大沢漁業協同組合建物

私が岩手大学に来て22年間お世話になっている山田町水産センターの被災状況を
見ておきたいと思って、大沢地区に入って行きました。
大沢地区はいっさいのものが津波で洗われていますが、瓦礫の山になっています。
やっと大沢漁業協同組合の建物が見えてきました。
瓦礫にはさまざまなものが含まれており、船があちこちに打ち上げられていました。
大きな建物も倒壊、倒潰していましたし、家も流されていました。


大沢の町

建物で残っているとしたら、それは2階部分のみ。
ほとんどの家は、跡形もなくなっています。
鉄骨でさえ流れ着いている感じです。
地震のすごさと、津波のすさまじさをまざまざと見せ付けられてしまいました。

だいたい、ひっくり返っている車など、雪道で年に一度見るくらいですが、
ここではほとんどの車がどうにも信じられない格好で放置されているのですから。


山田町大沢の町中

この道を作るためにどけられた瓦礫の山です。
自衛隊の方が何かしていました。
パンクを恐れながらの運転です。Sさん、ありがとうございました。


山田町水産センター入口

山田町水産センターの入り口です。
正面の建物が残っています。これは山田漁業後継者研修センター。


いわゆるかき小屋

研修センターは、土日はかき小屋として、牡蠣の殻焼き食べ放題をやっていました。
水産センターは、種苗センターとして出発し、牡蠣養殖の研究が行われてきました。
が、その建物は土台を残してすっかり無くなっています。


かき小屋(漁業後継者研修施設)

後継者研修センターを海側から見たところです。
紅白の垂れ幕のある部分は昔は水槽が並んでいて、教育施設として使われていた
時期もありました。昨年度からはかき小屋として収益を上げていました。
右側は実験室。2階は座敷と、資料保管室がありました。


山田町水産センター桟橋

桟橋の入り口です。
大きな力で、桟橋のコンクリートが外されています。
この桟橋の先は浮き桟橋になり、右側に研究・教育用のイカダがありました。
そのイカダは、なんと一部が残っていましたが、位置が大きくずれていました。


2010年8月9日の桟橋

2010年8月9日の桟橋からの景色です。
山田湾にはたくさんの牡蠣養殖用イカダがありました。
あれ?僕のホヤロープがぶら下がったイカダは大丈夫なのかも。


2004年の桟橋

2004年頃の桟橋からの景色です。
山田湾にはたくさんの牡蠣養殖用イカダがありました。


山田町水産センター桟橋から

桟橋の先まで行ってみました。
ロープできっちりと結ばれていた浮き桟橋の鉄部分は流され、木っ端だけがむなしく
浮いていました。
私が昨年11月に入れたホヤ養殖用のロープも見当たりませんでした。
あったとしてもここが直らないと、ロープも回収できません。
おそらく、ここは施設ごと廃止なのでしょう。
人がいなかったのが幸いです。


桟橋から陸を見た

桟橋の先から陸側を見てみました。
見慣れた水産センターの建物は、白い屋内水槽の縁しか見えていません。
なんと、電柱も折れています。
木も折れて、倉庫などは跡形もありません。


2010年当時の写真

2010年8月9日の写真です。
同じアングルです。左の建物がなくなったのがわかります。


2008年当時の写真

2008年10月の写真です。
右端の2階建のポンプ設備は2009年に撤去されていました。


後継者研修センター2階和室、水の力が上に向いた?

無断ですが、研修センターの2階を拝見しました。
和室は、畳がめくれあがっていました。
おそらく、1階に入ってきた水が、外に出られなくて上に上がったのでしょう。
水の力をまざまざと見せ付けられました。


水産センター階段、津波はこの高さまで

水は、階段の壁に跡を残していました。
階段上がって右側が上記の和室です。


水産センター、一所懸命スケッチした実験室壁が破壊

臨海実習のときには、この建物を貸していただくのですが、ここは実験室です。
ここで、採集した海の動物をスケッチしたり、図鑑で名前を調べたり、顕微鏡で
小さな生物を観察したりしていました。
見る影もありません。


水産センター荒涼とした景色

電柱や大きな木は倒れ、あるいは折れていました。
残っているのは、瓦礫と、細いしなやかな枝だけです。
津波に抗えるものはないのかもしれません。


民宿オランダは残った、阿部さん

水産センターの桟橋に船をつないでいて、僕らが行くと必ず見に来ていた方が住んでいる、
近くの民宿オランダです。22年前は、ここでお昼をいただきましたが、すぐに休業
しました。
なんとこのすぐ真下まで津波が来たそうです。
民宿のすぐ裏には、山に上がる急な坂道もあります。
家は大丈夫だったのでしょうか。

この先には電柱も倒れており、行けそうになかったので、この前の道に車を停めさせて
いただいて水産センターを見に行きました。帰って来たら民宿の方が道に出ていらっしゃった
ので、お話をうかがいました。

なんと、地震のすぐあと飛び出して、船を沖に出して、船も命も助かったようです。
昔の人のなんと勇敢で的確な行動だこと。
今考えると、山田湾は入り口が少しゆがんで狭く、湾の中は丸く、おそらく深いので、
湾の入り口に近いところに船を持っていけば、砕ける波に襲われることはないと思います。
彼はそれを知っていたのでしょう。というか、いつも考えていたのでしょう。

もちろん、漁師は船を失うと生活費が稼げませんから、皆、家よりも船を守ります。
それにしても、スピードが命です。
沖に船を出している途中に、砕ける津波に巻き込まれた人もたくさんいることでしょう。
また、そうやって津波に飲まれながらも、引き波に乗ってさらわれているときに、
船を捨てて、沖の島に泳ぎ着いて助かった人もいます。
これは運なのか、その人の行動力なのか。
私はやはり訓練であろうと思っています。


造船工場を見る

民宿オランダからは、下の造船所?と水産センター、漁業後継者研修センターが
よく見えます。彼はいつも、海とこの建物を眺めていたのでしょう。
ほんとに、ここ、いいなあ。老後はこのあたりに住みたいなあ。
ちょっと街からは遠いので、家族はついて来ないだろうけど。(爆)


アスファルトがはがれた港

帰りに、いつも通っている岸壁の海側をのぞいてみました。
アスファルトがはがれています。
どんな力がかかったら、こうなるのでしょう。
液状現象?

Sさんに、船が付けている赤い旗はなんだ?と尋ねられました。
わかりませんでしたので帰って調べてみたら、危険物荷役中であることを示す旗でした。

危険物船舶運送及び貯蔵規則
第367条 火薬類、高圧ガス、引火性液体類、有機過酸化物、毒物又は放射性物質等を貯蔵する
貯蔵船には、昼間は赤旗を、夜間は赤灯を、マストその他見やすい場所に掲げなければならない。

おそらく、これだと思います。
船の燃料等を運んでいるのでしょうか。


山田町大沢

もう何もかもが破壊・流出していて、口もきけなくなりました。
このすべてが、それぞれの方々が苦労して働き、築き上げてきたものです。
それが一瞬にして奪われ、被災者の方々には、今後のことも明白ではないのです。
早く復興支援策が明確になることを望みます。


大沢の5m堤防

防潮堤の鉄門です。
津波警報が出たときには、まずこの門を閉めます。普段は道路になっており、防潮堤の向こう側と
こちら側を結んでいます。
撮影しそこないましたが、別の門には、ここが4.8mの高さであることが書かれていました。
防潮堤の向こう側には、大きなコンクリートの塊を2列に並べてあります。
そこがどうなっているか、今回は見ることはできませんでした。
いずれにしても、各地で防潮堤の門扉を閉める作業をしたばかりに、津波に飲み込まれた人が
多かったのではないかと思います。
こういう、津波対策作業中に亡くなられた方が多いと思います。
ご冥福をお祈りするとともに、仕事に忠実であったことに深く敬意を表します。


大沢漁協の建物裏

漁協の建物の裏を通りました。
鉄筋コンクリートの建屋は残っていましたが、こちら側の建屋は破壊されています。
壁の作りが違うことで、このようになるのでしょうか。


山田町総なめ

山田の街を迂回する山の中の道路から撮影しました。
平らなところが、すべて被災しています。
火災もあったので、戦争で被爆し、焼き尽くされた街のようです。


山田町上から

山田町のシンボル、オランダ島が見えます。
が、こちら側は。。。


波板海岸

浪板海岸です。
波がとても静かで、引き波はあっても寄せ波が無い、といわれたところです。
昔、南岩手をぐるっと回る列車に家族で乗ったときに、ここでいったん降りて、
海水浴をしたことがあります。我が家でただ一度の海水浴です。
が、砂浜が無くなっていました。
松林も一本を残してなぎ倒されています。
ホテルの被害もすごいです。
道の山側にあった線路や駅は、跡形もありません。
なんとも言えません。


大槌町

テレビでも紹介されている通り、大槌町はもっとひどいです。
見渡す限り、黒い土と茶色の瓦礫。
瓦礫だらけの砂浜になってしまったような感じです。
ここにもお世話になりました。
東大の海洋研究所があったり、蓬莱島というひょっこりひょうたん島のモデルと
言われる島?があったり。
イトヨという魚の保護に一所懸命な高校があったり。
鮭を捕獲する施設も見学させていただきました。


大槌町破壊

もう、何がどうなっているのやら。
道の右側もすごいです。
川をさかのぼって津波が襲ってきたのでしょうね。
山の間の隅々にまで瓦礫が流れ着いていました。
瓦礫の中には、コンテナ車も多くあり、もしかしたら現地の避難体制に詳しくない方々の
犠牲も多かったのではないかと想像しています。
仕事中に、どうしたらよいのかわからないまま、車の中で被災し、流されて、その挙句
行方不明になっている方も多いと思います。
早く、生きたご本人か、せめてご遺体が見つかることをお祈りしています。


トンネル内も停電

信号も停電でしたが、トンネル内も停電でした。
これは国道45号線です。いわば、沿岸を貫く一番太い動脈のような道路です。
そこが2週間経っても電気が通じないというのは、この地震と津波が全く想定外の被害を
及ぼしたのだと考えざるを得ません。もっと安全性の高い技術を開発、導入しなければ。


釜石市内チェック済みと遺体発見マーク

この赤丸の中に×のマークの意味を教えていただきました。
被災地における、捜索済みの箇所には赤丸。
ご遺体が発見された場所には×なのだそうです。(他の資料では未確認)

ここは、山を降りて釜石の街なかに入る地域です。
津波がまさかここまでは来ないだろう、と思われた方が多かったようです。
危ないところで生き残った方の伝聞としてうかがいました。


二階の高さまで

ここまでは来ないだろうと思う人がいる場所でも、2階の高さまで津波が来ました。
写っていませんが、左の建物の2階入り口に貼ってあった小沢一郎のポスターも、
津波に浸かっていました。彼は溺れたのか?(蛇足ですね)


釜石サンルート前

多くの方が泊まったことがあるでしょう。
ホテルサンルート釜石です。
道を確保するためにどけられた瓦礫でいっぱいです。
玄関のあたりはややきれいでしたが、水に浸かっていました。


新生釜石教会

大町3丁目にある新生釜石教会に行きました。
教会の前にテントがあって、誰でも支援物資をもらって帰れるのです。
ここに、必要と思われるものを寄付してから盛岡に帰ろうと。
実はカジパと牧師は昔からの知り合いなのですが。


新生釜石教会

手前の白い建物が牧師館です。
二階のベランダ部分まで水が来ているのがわかるでしょうか。
教会のすぐ裏が山になっていて、お寺があるのですが、そこが避難場所です。
間に合わなくて教会に逃げ込んだ方があるようですが、その方は、気づくと教会の
一番奥まで流されていたそうです。
つまり、教会に入ってきた水が、彼を奥まで流し、そこで壁に当たって、引いていった。
よく教会が壊れなかったものです。


新生釜石教会物資

教会の会堂の中は救援物資でいっぱいでした。
やはりここでも、物資はあふれていて、必要なものが足りない、という状態でした。
使い捨てカイロを差し上げようと思ったのですが、もう200箱もあるとのことでした。
が、大人用のおむつは需要があるとか。長靴とタオルも置いてきました。
長靴はこのような状態の町では必須です。また、タオルもこれからの掃除に必須です。


十字架

壁ははがれましたが、十字架は残りました。


会堂後ろ

会堂の後ろ側の壁です。
2階のバルコニーぎりぎりまで水が来たことがわかります。
当然、教会は水にあふれて。。。
去ったあとは泥だらけで。。。


会堂一階廊下の天井

会堂に続く廊下の天井です。
ライトまで泥だらけです。
これは予想もしていませんでしたが、当たり前のことではあります。


釜石新生教会の前の遺体発見自家用車

教会の向かいの空き地(何が建っていたのでしょう)にも、例のマークがついた車が
放置してありました。
とにかく街中このような状況です。
これが、津波が発生してから16日経った街の様子です。

亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。
また、ご家族をなくされた方々が未来を見られるような復興の様子が起こされますように。
さらに、行方不明の方々の元気な姿、それがダメでもご遺体が家族の元に戻りますように。
そして、まだ家族と会う事ができない方々が、早く家族と一緒に暮らせますように。
行政の情報管理がスムーズに行え、必要な人に必要な行政サービスが行き渡りますように。

がんばろう、東北。
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